昭和46年04月24日 朝の御理解
御理解 第1節
「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」
今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ。信心をするというても、只信心をするとか、只拝むとか、お参りをすると言う事ではなくて、そこから段々本当の信心の目が覚めると。だからこれはまあ色々に言えると思うんですけどね。まあ翻然として悟ると。「信心は悟りなり」と昔から言われております。だから拝むとか、参るとか、話を聞くというても、そこからね翻然としたもの目が覚める、すっきりと目が覚める。
寝呆けているようなものじゃなくて、眠りこけとるようなものじゃなくて、例えば冷たい水で顔を洗う時、目がぱっちりと覚めるでしょうが。只目が覚めたさめたというのは、そういうことでなからなければいけん。翻然として悟らして頂くこと。翻然としたものになって参りませんとね。只参りよります、拝みよりますだけでは大したことはない。そこでどう言う事に気付いて、どう言う事によって目が覚めるかと言う事に、その人の信心の値打ちが決まるとこう思うのです。
御理解第二節に「先の世まで持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心をすれば、誰でも受けることが出来る。みてると言う事がない」ですから信心とは、究極神徳を受けることにあるんだと悟ったと致しましょうか。そしたら私はもう自分の思い方とか、生き方いわゆる我情我欲の生活から、本当にお徳を受けさせて頂ける生き方に、断然変らせて頂くことだろうとこう思う。信心というのは、先の世まで持って行かれ後の世までも残るそういうもの。
それをここでは、もうお話しさせて頂くことは、結局は徳を受けると言う事に、お話は結論されますね。徳を受けるためにはと。だからどれだけ聞いても、繰り返し聞いてもですね、聞いておるだけでは目が覚めたとは言えんのです。もう信心とはそういうお徳を受けさせてもらう道を教えてもらうのだと悟らせて頂いた時、言わばこう言う様な生き方では、神様の御信用を受けることは出来ないと。神を信ずる氏子は多いけれども、神から信ぜられる氏子は少ないと仰せられる
。何故かと言うと、私はそこんところを翻然としてないからだと思う。神から信ぜられる氏子、それが御神徳を受けていくと言う事。だから自分の生き方というもの、思うておること行うておること、その思うておることまでが正されるのである。勿論行うておること等は尚更正されて来なければならん。神様の前には一分一厘のごまかしもきかんのであるから。そうゆう風に私どもがです、信心とは御神徳を受けることなりと。そこから反対に、神様の御信用を落とすような生き方。
神様に苦い思いをさせるであろうという思い方、神様が見透し聞透しだと仰せられるんですから。神様が見透しておって下さる、聞き透しでおって下さるんですから、言うておることだって、自分の心の中に思うておることだって、ああこれでは神様から御信用を受けることはとても出来ない。ここを一つ自分は改めなければと、私は翻然として来るだろうとこう思う。絶えず金光様と心の中に唱えなければ居られんのである。
絶えずその生き方が、新たな有難い生き方が求められるのですから、その求めに応じた生き方、いわゆる、信心生活が出来なければならぬ。その辺のところがはっきり致して参りますところから、今天地の開ける音を聞いて目をさませと、そういう思い込みが出来たところに、天地の開ける音を聞いて目をさましたんだと。それは天地の大音響とでも申しましょうか、天地の回転音とでも申しましょうか、それはもうすさまじいまでの回転音なのですけれども、あまりにもすさまじい迄の音なのですから。
私共は却ってその音が音として聞こえてこない。私はそういう天地の働き、天地の大音響を心の耳に聞かせて頂いた人が初めてはっとする程、自分の生き方の間違っておったことに気が付かせて頂いて、目をさましたものの生き方が出来るのじゃないかという風に思うんです。なら御理解三節を頂きましてもそうです。「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子居っておかげを知らず。神仏の宮寺氏子の家屋敷、皆神の地所そのわけ知らず。方角日柄ばかり見て無礼致し、人間のめぐりあわせで難を受けおる。
この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ末々まで繁昌致すこと。氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つように致す」とこうある。だから理解申して聞かせ、願う氏子におかげを授けと、まあこの辺のところが安易に頂くところです。お願いをしておかげを頂くけれども、理解申して聞かせ、末々までも繁盛し、末々まで繁昌致す程しの理解、末々までも繁昌致す程のおかげ、そういうおかげを話に聞かせて頂いておるのですから。
話を聞くうちに、その話はね、言わば凄ましい天地の開ける音なのですけれども、それを翻然として自分の信心に響いて来るところまで受け留めきらない。そこから神ありての氏子、氏子ありての神、上下立つように致すという神様の理想郷というかね。神様の願いの世界というものが展開してくる、開けてくる。おかげを頂けれるために、私どもがこの御理解三節からでも、どこを聞いたらそんなに目がさめるだろうかと。
けれども矢張り覚めない人もありますけれども、一番肝心な所はね、神仏の宮寺氏子の家屋敷、皆神の地所そのわけ知らず日柄方角ばかり見て無礼致しと言う所がある。これはまあ言葉に言うと、成程宮寺の境内であろうが、それは氏神様の境内であると言うとるが、又自分達の家屋敷でもそうですね。ならここの合楽教会が、丁度六反ありますかね、三六の十八、千八百坪、その千八百坪のここの屋敷地と言うものが、これは大坪総一郎のものでもなければ、信者一同のものでもない、皆神の地所なのである。
ですからそこのところがね、悟れる時に、私は甘木の初代なんかは、天地の親神様の御ものとしての頂き方が、翻然として出来られるようになった。もうその天地の親神様のものを、我が物顔に使おう等とは、もうそれこそ馬鹿らしゅうなって来ておられた。甘木の初代なんかは、木の葉一枚でも、枯葉一枚でも、反古紙一枚だって天地の親神様の御ものだとわかられた。翻然と。
これはね聞いて知ると言うものじゃないですよ。翻然と今天地の開ける音を聞いて目をさますと言ったようなことは、そういう生易しいものじゃない。翻然として天地の親神様の御ものであるとして、悟られたところからです、もう勿体のうして、勿体のうして仇や疎かに出来んようになって来る。それで、それこそ伝説的に残っておるような、甘木の話がある訳なんです。
そこでね、私は思いますのに、それは甘木の初代は、御ものを大事にされて枯葉、枯れ枝一枚でもお粗末にされなかったと言うその精神が、どこに目指されなければならないかと言うと、神様に喜んで頂くことのために、私はその思いが成就されなければいけないと思う。例えば此処のお手洗いのお水なんか、恐らく九州ではああ言う様なお粗末な使い方をしているところはないでしょうね。一日中滾々とした水が湧いとるとですからね。言うなら水はずっとお粗末になって行っておる。
ならそれが天地に対する御無礼かと言うと、私の見解で、私が翻然として目をさまさして頂いたのは、無尽蔵に限りなく下さるのだから、無尽蔵にそれこそ真実それを有難いなあ、勿体ないなあと言うて頂けることこそが、私は神様に喜んで頂く頂き方だと思っている。だからその辺のところは、見解で悟りの境地の相違とでも申しましょうか。どうでしょうか。天地の親神様のお恵みのお水であるから、お粗末御無礼のこと出来んと言うて、あそこのお水をくみ溜めておいて。
それを二日も三日も勿体ないと言うてから、ボーフラが湧くことなった水で、誰だって手も洗うことなけりゃ、口なんかゆすぐこともなか、いやむしろその水を見る度に、どうとかこれは綺麗な折角な水を何とかしようはないものだろうか、却って不愉快、不快な気持ちになるとするなら、それこそが私は神様の御無礼だとこう思う。もういつお参りさせて頂いても、それこそ滾々と湧いているあのお水を、ここでは皆さんが手を洗う、口をゆすぐだけではなくて、必ず行き帰りには、あれを頂いて帰られましょう。
御神水として。だからこそ、私は限りなく無尽蔵に頂けるんだと思うんです。これは合楽の生き方なんです。と言うて、それがね、只それがね何にもならないことに、お粗末御無礼に使われてはならない、これは私の考えである。例えば皆さんがお参りをなさる。いつお参りをさせて頂いても、滾々と水が湧いておる、有難いなあ、勿体ないなあと。又はそれを御神水として頂いて帰れる程しのお水であって、お水が生かされるのであり。神様が無尽蔵に下さる。神様が喜んで下さるのである。
それかというて、私はお粗末、御無礼な使い方、必要でないものを、必要以上に使うということは、これは御無礼だと。そこで私の場合なんか、お風呂に入らせて頂いても、湯桶半分というような頂き方を自分の心の中に決めておる。私皆さんと一緒に風呂に入ると、湯桶にがばっと、湯桶の中にすずれる位に入れといてから、じゃぶ、じゃぶかぶる人がありますね。横ではらはらするような気がする。あれは半分で間に合うのにと思う時がある。だからこれは自分の心に定めること。
もうお風呂に入らせて頂いたら、湯桶半分と、湯桶半分で体洗うと、こういう訳じゃないですよ。お湯を汲ませて頂く度に、湯桶半分使わせて頂くという意味です。これは私の一つの悟りだとこう思う。ここのところがです、その一例をとって申しましても。その訳しらず、日柄方角ばかり見て、神様に対して無礼を致しと言う事になるのじゃないでしょうか。これは神仏の宮寺氏子の家屋敷、皆神の地所と言う事は、どう言う事になるかというと、自分のものでもないものを、自分のものと思い込んでおるところに、思い違いがあるんだと言う事になる。
いわゆる見当違いな思い方をしていると言う事になる。だから見当違いの思い方のすべてがです、ここんところに当てはまって来る訳です。随分見当違いの思いをしてますよね。本当のようであっても、それがより本当のことになってくるのです。枯葉一枚でも、反古紙一枚でもというような、例えば頂き方は尊いけれどもね、それを本当に生活の上に、それがそうしなければ神様に対して御無礼になるという考え方は間違いだと思う。神様は限りなく下さるもの。
ならここら辺では随分ボ-ル箱でもお供え頂く。紙でも箱でも、又はいろんな材木の端でも、家ではあれは使いませんから全部燃やしてしまいます。燃やして灰にしてしまいます。ああ勿体ない、もうこの頃では、風呂だきに使うこともなければ、くどにそれを使うこともない。ああ勿体ない、勿体ないと言うて貯めてみてごらんなさい、もうそれこそろくそうなことになりましょうね。
こういうところを見当違いの考え方をすると大変間違ってくるんです。いわゆる、しみったれた生き方になってくるのです。そして自分も不便ならば、人にも不愉快な思いをさせなけきゃならんです。神様だってそうです。見当違いな考え方、自分はそれを本当だと思っておるから、本当としてから、神様は受けて下さる向きもありましょうけれども。より本当なことを目指さして頂くことが信心である。
その日柄方角を見ると言うたこともそうです。全然この世には日柄も方角もない、天地の親神の御恵みが満ち溢れている世界しかないのだ。東の方へ行っちゃいかん、西の方なら良かと言ったことはないのである。人間が得手勝手に、そしてそこに日柄方角を言うことは、それは見当違いな考え方だから、皆さんこうやって信心の知識をこうやってわかる、聞く訳ですがね。ああ成程そうなんだなあと、だからわかっただけでなくてです、成程そういう見当違いの生き方をしてはならない。
してはおらんかと気付かせて貰って、そこから改まった生活になることなんです、天地の開ける音を聞いて目をさますと言う事は。私どもの日々の生き方の中にです、そういう見当違いの生き方をしている様な事はないだろうか。見当違いの思い方をしてはいないだろうか、それがね、しかも神様の、前々のめぐりで難を受けおると仰るように、それがね、お互いの難儀のもとになっておるとわからせて頂く時に、とても馬鹿らしゅうて見当違いの生き方は、出来ないことになって来る。
只金光様の信心して、そういう知識を得たと、一切神様の御ものであるとか、または日柄やら、方位やらと言う事はです、言わば迷信を信ずるという考え方こそが、見当違いの考え方。見当違いの考え方したんでは、ここんところではよく昔から言うてあることだからね。昔から言うてあることだから、「やはり昔から言うてあることだけはせにゃ、万一の時いろんなことがあったら、人から笑われる」と言った様な事をよく言います。そう言う事がです。
私は翻然としてわからせて頂いたら、そう言う事がなくなって来ると思う。もう馬鹿らしい、そういう生き方は。今天地の開ける音を聞いて目をさませ。それこそ天地の心をこのようにして、例えば皆さん聞かせて頂いておる訳ですから、今日からはです、そういう見当違いの生き方をしては相済まんでなく、しては馬鹿らしいという生き方にね、ならせて頂いて、先の世まで持って行かれ、子孫まで残る程しの神徳を受けることが信心だとわからせて頂いたら、神様の御信用を頂く。
神様のお喜びを頂けれる生き方こそ、私どもの生活のすべてでなければならないと言う様にです、生活全体が改められて来る。そうしなければ馬鹿らしい、そうしなければ神様の御喜びは頂けない。それを今迄の習慣とか、昔から言って来たことだからと言うて、そういうところから抜け切れない生活を一番つまらん。いわゆる一番つまらんことなら、この御理解三節から言うそこがです、そういう見当違いのことを言うたり、したりしておることがです、天地の気感に適わんから。
前々のめぐりで難を受けておるから、難を形成、作って行くわけ、そういう生き方は、見当違いの生き方は、一切が神様の御事柄であり、神様の御ものであると悟れたところから、それを大事にする頂き方。その大事にするその頂き方にまた問題がある訳です。甘木の初代が頂かれた頂き方があり、私の頂いている頂き方がある訳なんです。私の場合は、木の葉一枚、枯葉一枚、そこに天地の親神様の御ものであることはわかっておる。けれどもそれは燃やしてしまう。何にもならんことだ。
いわゆるごみのようにして燃やしてしまう。だからその時代とか、その時限と言うものに応じて、やはり本当な頂き方見方と言うものはあるんだとこう思います。もう私は甘木の親先生の生き方では、いけないと思います。そげなことしよったら、もう金光様の信心するものはなかごとなってしまうです。これから先の時代には、それはもう反古紙一枚でん、ちゃんと貯めとかにゃならん。
それが神様が喜びなさることのごと思うとる。ところが、神様はもちっとすっきりとした生活してくれることを願ってあると致しましょうかね。それにもうこう、昔のものが貯めて取ってある、そして勿体ない、勿体ないと言うて使いもきらん、というよりも、決して贅沢をせろというのじゃないです。そういう見当違いな考え方が、私どもは絶えずそこんところが求められる、改められる。
信心は日々の改まりが第一とあります。私が今、思って要る様な事が、また次の時代には通用しない時代が、いやもっと神様が喜んで下さる生き方があるに違いありません。いつまでも教祖の神様の時代の生き方、在り方というものが、今の時代に、それを持ってくるということは、却って神様のいわゆる何と言うでしょうかね、子供にこれが良く似合うからと、これをあげようと親が言うでしょう。勿体なかけん、そげなものはいらんというようなものじゃないでしょうか。
もうあんたがたには、ちった小うなった、あんたのにはどうも派手になった。だからこれをあげようとこういう。いいやこれが良いというて、もう五十にも六十にもなってから、十七、八の時に着よった着物を着る生き方が、どうでしょうか。神様が下さろうとする。いやそれはいりませんと言う事は、それこそ神様を反対にがっかりさせる事になるだろう。有難しとして頂けるならば、ここの例えば、お手洗いの水です。
勿体ないとして頂けるから、いくら滾々として湧いて、またその水が元の地下水に戻っていきよる訳ですけどね。それであってこそ、合楽のお手洗いが素晴らしいと言う事になるのじゃないだろうか。例えば毎日一ぺんしか替えんと、使や使うしこ減っていくでしょう。そしたらもう少しばかりになった、お水をですよこうしてかすって使うなんか、それが神様の御心にかなう思い方なんかは、その思い方を替えて行かねばなりません。限りなく無尽蔵に下さるもの、それを私どもが有難く頂いていくと言うて、それがおごりになったり、贅沢になったりしてはならない。
そこに私どもは、そういう生き方に一つのブレ-キというものの生き方、言うなら湯桶半分といった生き方が私の、水なら水に対するところの、神様が無尽蔵に下さるものを、無尽蔵に有難い、勿体ないとして頂くところに、人間のまた心の隙に御粗末、御無礼になっていくやらわからんから、これはまあ日々お湯を使わして頂く時に湯桶半分といったような心で、うまく使わしてもらう生き方が、また工夫される訳なんです。
まあ今日はいわゆる、天地の親神様の御心というものを、いつも噛んで含めるように頂いておる。成程成程と合点が行く。だから合点が行っただけでなくて、それが行の上に表さねばおられない程しのもの、それを今日は天地の開ける音を聞いて目をさましたものの姿だと申しました。それこそ目が覚めたように、それこそ今迄の生き方、生活が、丸きり夢のような、悪夢のような思いで、さらな生き方、天地の親神様のお恵みが、そこに生き生きとして生かされる。
生かして頂く生き方、そういう生き方に私どもがなり切れる。見当違いの思い方、見当違いの生き方というものをです、改めて行くという、そういう生き方がです、先の世までも持って行かれ、後の世までも残るものは神徳じゃと。その神徳は信心すれば誰でも受けることが出来ると仰る信心とは、そういう本当のことから本当のことを求めて行く生き方なのだ。求めて行く事それが信心だと。甘木の初代の頃の思い込みがです、なら合楽の教えを受けた時代になって、それがより本当の事に切り替えられてこそ。
私はおかげだと。またその生き方も替えられる時代が来るかもしれない。そういう生き方を、私は神徳を受けて行く、神様のお喜び頂ける生活と言う事ですから、神様の御信用を頂いて行ける生き方だと思うのです。いくら聞いて聞き貯めとってもだめ。いかに天地の今開ける音を聞いて、さあ目を覚まさんかと言われても駄目。大きな音を聞いたとて、それを行の上に表して行かなかったら、目が覚めた生き方とは言えない。信心に目覚めるという生き方ではないと思う。
いわゆる、拝んでおります、お参りをしておりますという信心から、天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らずというところ、天地の親神様の天地の間におって、天地の親神様のおかげをおかげと知らないところから、例えば始末倹約的な信心ですかね、言うならば。おかげが分かったら、本当におかげがおかげと分かったら、それを有難く、勿体なく頂いて行けれる道、そういう道を私どもは、限りなく求めて行かなければいけないと思いますね。
どうぞ。